つねならぬ話 星新一

「つねならぬ話」

この作品集が星新一の最後の短編集となりました。
その意味でも避けて通れない作品なのは勿論ですが、作風の最終章でもあります。

1988年(昭和63年)初版
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ここに掲載された作品は、極限まで装飾を削ぎ落とし、ガリガリになり、まるで物語のあらすじのようです。

小説はことばを用いて時代風景や場所を設定して、主人公の心象風景を描きながら、そこで交わる人物との事象を書き綴ります。もちろんそればかりではないですが。あくまで一つの例ですが。
ここまでことばを削り、飾りをなくしたものが小説として或いは寓話として楽しめるのだろうか。

僕は、小説はことばを駆使して作品の厚みや深み増し、より娯楽性に富んだ形にして読者に届けるものだと思います。

筒井康隆に「虚人たち」という実験的小説があります。

「今のところまだ何でもない彼は何もしていない。何もしていないことをしているという言いまわしを除いて何もしていない。窓の外は晴れている。いや。曇っているかもしれないがその保証はない…」という文で物語が始まります。

1981年(昭和56年)初版
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ここに登場した「彼」とは、作者が筆を進めることによって行動をし始めます。作者が考えた「登場人物」だから当たり前です。
通常、小説の暗黙の了解のもと、登場人物がトイレに行ったり、睡眠をとったり、人間として当たり前の行動は作者の都合で省略されています。

だからこの「虚人たち」では、些細な事柄も省略せず、主人公が気を失っている間は、真っ白なページ数枚で表現しています。(こんなことは、筒井康隆大先生だから許されることだろう。)

こんな本みたらぶっ飛びます。
何も書いていない。
この白いページは、主人公が気絶している時間です。

原稿用紙一枚が一分だそうで、「定時法」と言うそうです。
一般的なマトモな小説は「不定時法」で書かれているので、余計な事象は省かれています。

(虚人たち より)
この空白ページが、何と11ページ続きます。
筒井先生はムチャします。

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そりゃそうです。
そんなもの一々描写していたら物語はつまらなくなる。その当たり前の約束事があるからこそ、面白い。
それが小説だと思います。

この「虚人たち」は小説の約束事に挑んだ実験小説なんだと思います。

では、その逆に、小説の常套手段としての風景描写や心象描写を極限まで削ったとしたら、それは「あらすじ」であり無味乾燥な作品になりはしないか。

星新一の最後期の作品は、すべての無駄?を省いてしまいプロットの状態で勝負を仕掛けているように思えます。それはいくら何でも無謀ではないだろうか。

今回取り上げた「つねならぬ話」の小説集は実験小説なのか、それとも質的変化なのか。
僕は、この作品が星新一の追求した小説の、最後に辿り着いた「理想」の形だとは思えません。

この作品集の後にも作品を書き続けたならばねえ。
きっと力尽きてしまったんだろう。あんなに集中して毎回、無から有を生み出す作業をしていたら、ボロボロになりますよ。

星新一の言葉の魅力を何点か紹介します。

「やや、なんということだ。ひとりの若い女がいるぞ。人の住めるような島じゃないのに…船が難破して…近づいてみよう。美人だったら助けてあげよう。そうすれば、心から感謝してくれるにちがいない。」
(戸棚の男)

変な文章だと思いませんか。人を喰った文章です。

「一枚のガラスを境にして、冬と夏とがとなりあっていた…ショーウインドウの外では、きびしい寒さをふくんだ風が走りまわっている。」
(声の綱)

何気ない表現ですがこのような表現は心を和ませてくれます。

星新一の風景描写は、上品であり、それとともに何かが起こる前兆を感じさせます。

それは、オチであるとか呆気にとられる結末ばかりではなく、その一つ一つの言葉に魅力があるからです。

先に挙げた単行本に「お寺の昔話」と「夢20夜」を加えて、文庫本が刊行されました。

1994年(平成6年)文庫版初版
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「ささやかれた物語」
14の話が納められています。

星新一によると、この14の物語は自分に何かが乗り移り、三時間半の間に、頭の中に語られたといいます。
そのメモは次の日の朝になっても書斎の机に残っていました。
それを星新一の言葉で仕上げたのがこの14作です。
不思議なこともあるものですね。

「記録されていない民話を浮遊霊が私にささやいたのだろうか。」
と述べています。

世の中には、作風がまったく変わらないという作家もいるかも知れないが、作家に限らず多くのものづくりに携わる人たちは、その方向性や作風は変わるべきして変わるものだと僕は考えています。

よく、あの頃の小説の方が良かった、あの頃に戻って欲しい。などというファンがいるが、作家にとっては酷なことだと思います。
作風を変えずに「焼き直し」で生きていくなど屈辱でしかないだろう。

小説から寓話へ。
星新一に、もっと若い体力と時間があったならば、きっとこの先、今までにない新しい作品を僕は読むことができたのかもしれない。

星新一の文章は、デビュー当時から既に完成されていました。だからこそ当たり前の文章では飽き足らなかったのか。
天才ゆえの深い悩みが、ここまでの作風の変化をもたらしたのかもしれません。