筒井康隆は、星新一のこんな不安げな一言を忘れられないと言います。
「ぼくの話にはみんな笑い転げるのに、なぜ僕の小説では笑わないんだろうな。おもしろくないのかな…」
マンネリについての星新一の言葉。
・問題はマンネリにあるのではなく、その質のほうである。
・マンネリこそ成功の条件である。
・マンネリは偉大さの特性ではないか。
ある評論家が星新一作品のマンネリについて論じている文章を読んだことがある。
僕は、星新一が生涯残した膨大な量の作品を分類、分析したならば、その多様さがはっきりするのではないだろうかと考えています。長い執筆活動の一時期には、誰しも迷いや行き詰まりに苦悩する時期はあり、それを乗り越えるところに作家としての力量があるのではないだろうか。マンネリの一言で済ませて欲しくはありません。
これは誰でもそうなのですが、所謂「型」というものができあがります。
筒井康隆には筒井康隆の、小松左京には小松左京の型があります。
先ずはその文体、これは変えようがありません。
問題は内容です。筒井康隆はその長い作家人生の中で、一度たりとも同じアイデアで小説を書いたことはない。と言っていますが、星新一にしても同じことが言えます。あの短い小説の中で、様々な試みをしています。
ショートショートは原稿用紙何枚程度という縛りがあります。
更に時事風俗を避け、前衛的な手法を使わないなど自ら課した制約、さらに「過去の作品の焼き直しの誘惑に逆らいながら」の一定水準以上の作品の執筆は、他の作家の何倍もの苦悩があったのではないだろうか。
最終的には、星新一が言っているように「作品の質」にあると思います。ショートショートは短い短い短編ではあるけれど、決して手軽に消費されてしまうような小説ではないんです。
命を削りながら作品を生み出していた。だからこそ60年前の作品が古びることなく、今も書店で手にすることができるんです。
星の数ほど世に出されたベストセラーも今では何処に消えたのやら。その結果がすべてを物語っています。
星新一が生前出版した作品集からこぼれ落ちた作品を拾い集めて出版した「つぎはぎプラネット」を読めば分かるのですが、いかに水準以上の作品を厳選して一冊の本にまとめ、その作品の合計が千編を超えているという凄さ。
「つぎはぎプラネット」を、これで「星作品読破認定」です、などと言っていますが、星新一自身はこの本の出版を喜んではいないのではないかと僕は思っています。