午後の恐竜 星新一

小説好きの読者が求めるような作品を星新一に求めること自体が的外れではないのか。

今までの「小説の概念にとらわれた作品」ではない、その当時、何か新しい世界を求めて、様々な作家の本を手に取り、回り道しながらようやく星作品にたどり着いた若者は多いはず。
そのような作家だと思います。実は僕がそうでした。

自分がまだ何者でもなく何を目指すべきかも手探りの時、本屋さんを巡っては探したものでした。
哲学書や精神分析論の訳の分からない本も手にしたし、自己啓発本にも頼ったり、いわゆる文豪と称される、あるいは当時の人気作家の言葉をむさぼり食べてもなかなか見つからない。
そんな時に出会えたのが星新一や筒井康隆などの新たな才能達の書き上げるSFやエッセイでした。

僕は読書家でも小説を手当たり次第に読むようなタイプでもはありません。
長編小説を読んで、大河ドラマのような感動や人生訓を学びたいなどと、そんなことを求めてはいないんです。

1974年(昭和49年)発行
ハヤカワ文庫版
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このハヤカワ文庫本の解説者である山野浩一氏が言う「カフカやドフトエフスキーを読んで自分の中にある新しい疑問や混迷を導き出したような、若き時代の体験とはまったく異質なもの」と星新一のショートショート作品を評しています。

気持ちが分からなくもないですが、そんな前時代的な大作と比べてはいけない。
それは、音楽で例えれば、クラシックとポップスを比べるような意味のないことです。

そのようにして、星新一の作品を「小説以前のもの」であると決めつけ、文学的評価に値しないと結論づけた大御所たち。
彼らの諸作品は僕を救ってはくれなかった。

おもしろい物語を読みたい。こんな発想、物の見方があったとは…
そんな意味での感動を求めて書店を巡り歩いた頃、今までに読んだことのないような小説を手にしたいという若き日の渇望のような気持ちを満足させてくれたのが星新一でした。

小説だけでなく、エッセイもそうです。目からウロコを剥ぎ取ってくれました。

1977年(昭和52年)発行
新潮文庫版
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最後になりましたが「午後の恐竜」も名作です。
あんな短な最後の土壇場で人生を描ききるなんて、ドフトエフスキーを手に取るまでもない。僕はこれで十分です。