きまぐれ星のメモ 星新一

高校時代の昼休み、図書室に籠もってこのエッセイ集「きまぐれ星のメモ」を読みふっけった思い出が蘇ります。
あの時は文庫版だった。
多感な高校生に発想の妙を教えてくれた一冊です。

それまでのエッセイ集でこれほど面白く記憶に残る本は無かった。
何が違うかと言えばやはりその発想にある。立ち位置、視点が違うのだと思う。

例に上げれば、純文学の巨匠である遠藤周作。彼のエッセイも評判が良く「狐狸庵」シリーズや「ぐうたら」シリーズもよく読みました。
ところが1968年(僕が7歳)に刊行された星新一の初エッセイ集「きまぐれ星のメモ」を高校生の時に読んだ時には、その面白さに夢中になってしまいました。

面白いというのは、決して「腹を抱えて笑い転げる」類いのものではなく、新鮮なその視点、対象に対する見方、考え方にありました。

遠藤周作のエッセイの視点は、自分にあり、そこから自分を見ている。
ある事象に対し「自分が如何に愚かでおかしな行動を取ってしまうか。」という話が多いように僕には思えた。
「僕は高学歴で流行作家なんだが、実はこんなにダメな人間なんだよ。ねぇ、面白いだろう。」と言っているように読めてしまう。どこか鼻につくんです。
決して上から目線で言ってはいないと思うのですが、なんか気取っていて、あまり書くと悪口になってしまうけど、僕には合わなかったのかもしれない。

ところが星新一のエッセイは「自分から世の中を見渡した風景が如何におかしなものであるか。如何に世の中は変なのか。見ている先が真逆にある。

これはSF作家のエッセイの特質でもあると思います。
筒井康隆や小松左京も同質の視点で世の中を見渡しているのが良く分かる。その中でも星新一のエッセイは秀逸だ。

1968年(昭和43年)初版

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たぶん、星新一の言葉だったと思うのですが、「筒井康隆のあの常軌を逸した、気ちがいじみた作品は、本当の非常識な人間には書くことはできない。常識という基準を作者がしっかり認識しているからこそ、文学作品として成り立つ小説が書けるんです。筒井康隆は常識を身につけた紳士です。」
言葉は違いますが、そのような内容のことを言っていたと思います。
そのような、常識人がSF的視点で社会を眺めるのだからSF作家のエッセイは面白いのだろう。

それにしても星新一の書籍には「きまぐれ」という言葉が多い。

以下にそのタイトルのついた書籍を列記します。

気まぐれ指数

きまぐれロボット

きまぐれ博物誌

きまぐれ遊歩道

きまぐれ学問所

きまぐれ体験旅行

きまぐれエトセトラ

きまぐれ読書ノート

きまぐれ暦

そして本書、

きまぐれ星のメモ

好きなんだね。「きまぐれ」が…1971年(初版46年)文庫版初版

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「きまぐれ」って何だろう。

星新一がきまぐれな性格なのか。

世の中を見わたしてきまぐれと感じるのか。

星新一のエッセイをすべて読んでいる僕の感想としては、「いゃ~、僕はきまぐれでね、何をやっても中途半端でダメな人間なんだよ~」

などというエッセイは多分今までお目にかかってないように思います。

それじゃ、狐狸庵(遠藤周作)先生のエッセイとおんなじで面白くも何ともない。

SF作家は見えている世界が違うと言うのが僕の考え方です。

だからこそ、SF作家のエッセイは面白いんです。

世の中の様々なありふれた事象を、普段我々が当たり前の角度から見ているものを、少しずらして、ひっくり返して、そこに新たな側面を見いだす。

それがまさしく発想の転換であり、SF小説の面白さにつながっている。

「SF小説なんて、未来を舞台に有りもしないことをもっともらしく書き連ね、あんな物ご都合主義の小説じゃないか…未来のこと、宇宙人のこと、そんな有りもしない物語なら最後はどんな結末だって用意できるよ。」とSF嫌いの人達は見ているのかも知れないが、小説なんかすべてご都合主義だと思う。

ご都合主義無くして小説は成り立たないのではないだろうか。それは純文学でも推理小説でも時代小説でも、もちろんテレビドラマだって。

星新一の「宇宙のあいさつ」という作品集に「あとがき」と題したショートショートがあります。

その冒頭にある文章です。

”まったく”雑然としていて、あきれるほど統一がない。浮ついていて、あきっぽく、気まぐれでもある。それでいて独断的でもある。

頭がからっぽのくせに、時々、つまらないことで自己満足におちいり、得意げに鼻をうごめかす。 

鼻持ちならない態度であり、たちまち鼻についてくる” 

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