著者名 小松左京
出版年 2006年(平成18年)
発行 新潮新書
ジャンル エッセイ集
「日本沈没」「復活の日」「果てしなき流れの果てに」など大作を矢継ぎ早に発表し、日本にSFを根付かせた巨匠小松左京が語る「SFに見た大いなる可能性」とは何なのだろうか。
本書は小松左京の波瀾万丈の半世紀でありSF界の巨人が語るSF論です。
「SFという文学形式の大いなる可能性に目眩をおぼえながら、腕まくりをして頃…もはやあの頃ほど体力も体重もないが、気持ちだけは少しも変わっていない」
「SFほど知的で、使い勝手がよくて、面白いものはない。若い頃にSFと出会えたことはとても幸運だった…」
SFとは、思考実験である。
SFとは、ホラ話である。
SFとは、文明論である。
SFとは、哲学である。
⋯中略
SFとは、フィールドノートである⋯
いや、この歳になった今なら、やはりこう言っておこう。
SFとは文学の中の文学でおる。
そして、
SFとは、希望である—–
と。
「戦争がなければSF作家にはなっていない」
小松左京は、戦争を題材にしたSF小説を多く遺している。
デビュー作「地には平和を」は、もし昭和20年に戦争が終わらず、本土決戦にまで及んでいたら…
これはいわゆる「パラレルワールドSF」です。デビュー作はじめ、たくさんの戦争もののSF作品をとおして、小松左京は何を書き遺したかったのだろうか。
昭和6年生まれの小松左京が終戦を迎えたのは、中学生、14歳の頃になります。
本人は兵隊として、戦いに加わった経験がない。それなのにこれほどまで戦争にこだわるのは何故なのだろうか。
僕の父は、昭和7年生まれ。今年94歳になりました。
その父の戦時中の体験としては、食べ物が不足していたことと、学校の授業がまともに行われなかったこと。毎日、隣村の悪ガキどもとけんかをしていたことばかりで、ひとつ年上の小松左京とは、その戦争に対する思いがあまりにもかけ離れており、ちょっと情けなくなるのですが…
本書でこのように書いています。
「僕は中学3年生で終戦を迎えた世代で…自分は兵隊になって死ぬのだろうと思っていたし、焼け跡の酷い現実も見てきた。しかしまだ生き残っただけマシで、沖縄戦では同い年の少年たちが銃を持たされて戦闘員として大勢死んでいる。もしもあのまま戦争が続いていたら…」
「だから何か書かなければ…戦争に行っていない自分に、戦争を語る資格があるのか…」
「従来の文学の方法でこうした重層的な思いを表現しようとすれば、大変な作業になる…重苦しく長いものになる」
「SFの手法を使えば、現実にあった歴史を相対化することができる…」
小松左京がSFに「大いなる可能性」をみました。
歴史を相対化する。
・もし、あの時戦争が終わっていなかったら…
・もし、あの戦争に日本が勝っていたら…
このように一度、現実や価値観をバラバラに切り離し、自由に発想を変え、ひっくり返し、立場を、環境を並べ直すことによって違う風景が見えてくる。
旧来の文学には、このような手法は苦手であるが、SFならお手の物。
タイムマシーンで時代を遡り、宇宙船で他の惑星に降り立ち、全くおなじに見えるが真逆の歴史を歩んでいる世界に紛れ込んだり…
歴史を、社会を、文化を相対化して、ひっくり返せば見えてくる世界はまた違って見える。そこに可能性を見いだしたのだろう。


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