昭和36年生まれの僕がSFと出会ったのは中学生のころ。
やはり例に漏れず星新一の作品集だったと記憶しています。
それが「ボッコちゃん」だったか「ようこそ地球さん」だったかは記憶にないのですが、その面白さに夢中になり、その後も作品集を手当たりしだい読み漁りました。
続いては、ちょっと毛色の違う筒井康隆の作品。
それは「にぎやかな未来」という初期ショートショート集でした。この作品集もおもしろかった。
ただ、僕の正直な読後感は「星新一に比べて雑だな」ということです。簡単に言うと物語の展開から結末に向かう流れのことで、筒井康隆の作品の結末にはどこか強引さがあり、星新一の結末やオチが繊細で少しでも不自然さが残らないよう熟慮されているのに比べ対照的でした。
3番目に出会ったのが小松左京。作品は「ゴエモンのニッポン日記」だったか、それとも「明日泥棒」かな。
なぜだろう。小松左京の作品にはどっしりとした安定感があります。
長編作家気質の成せる技なのか、両足がしっかり地に着いている感じでした。
友人が僕の書棚を覗くと「ありがちな並びだね」との感想。言われた僕もなぜか恥ずかしさがあり、そこには星新一がSFの入門書で、そこから筒井康隆や小松左京…と難しく高級になるみたいな段階とみられていたあの頃から今に続く評価がありました。
でもそんなバカな話しはないではないか。
文学や芸術にそんな単純な段階的分類分けなどあるわけがない。
そこにあるのは文学的、芸術的な「質」の問題であり、単なる長さや表現方法などではない。
僕にとって星作品は、星新一自身が設けた作品のクオリティ基準をしっかり超えたものしか発表しないという、職人気質が感じられました。そのくらい、小説からエッセイまでキラキラ輝いていました。
いずれにしても、この流れはまさに教科書通りのSF御三家の初期経験であり「刷り込み」にあたります。
僕にとってSFといえばこの3人の作品と、そこから派生し出会った作家の作品であり、とても狭いエリアの中にあります。
だから中々、最近のSFにまで手が伸びません。
現代の科学の進歩を思えば、最先端のSFはどこまで行っているのか興味はとてもありますが、とりあえずは僕がすり込まれてしまった初期SFをもう一度楽しんでいます。
安楽椅子に座りながら、のんびり、ゆっくり至福の時間を味わえたなら幸せですね。(筆者)

